身体を動かすのがハタヨガだとか
ラージャヨガとはヨガの王をのことだとか
ヨガをしているとベジタリアンじゃなければならないとか
バンダっていうのはともかく締め付けることだとか
日本の都会に住みながらヤマ・ニヤマが実践できるとか
インド武術や身体鍛錬法を元にした、動きとポーズと呼吸を合わせたものをヨガだと思っているとか
そんなほとんどのヨギーニちゃんたちが当たり前と思っていることが
『実は、みんな間違っているんだよ
なんで気が付いてくれないんだ!』
と血を吐くような思いで訴えているのが「たっきょさん」なのです。
ひょっとしたらあなたが無意識に見ないようにしていたことを白日の下に曝すのが
『尸林のダーキニー会』です。
尸林とは何?、ダーキニーって美味しいの?
とかいうことはたっきょさんに聞くと喜んで教えてくれます。
以下はそのご案内です。
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こんにちは。‘日本ヨガ界の魔縁’たっきょこと岸川卓巨です。
去年もやった『尸林のダーキニー会』をまたやります。
3月6日(日曜)15:00~20:30くらい。その後2次会?もあります。3次会?もある予定です。
場所は昨年と同じ市谷の燕スタジオ
http://www.yogaroom.jp/tsubame/
申し込み先は後日あらためてお知らせします。
参加費は基本的にありませんが、例によって会場費を俺も含めた全員でワリカンにさせていただきます。ちなみに去年は1000円前後ってところでした。その金額もキツイって人がいたら云ってください。タダにします。
子供がいるから来れないって人、連れてきてください(いちおー事前に知らせてください)。
そう都合よく時間を調整できないって方、途中参加でも構いません。腹を立てて途中で帰るのも結構です。夜10時でいったん区切りますが、セッションは最終的に場所を移動しつつ朝まで続きます。
で、去年と同じように、『尸林のダーキニー会』の口上文というか趣旨を書きました。
思いがけずかなり面倒くさい長文になりましたが、まあ来る来ないに関わらず一たびこれに眼をとめたなら、時間を見つけて最後まで‘‘ちゃんと’’読んで、それで何か考えていただけたらありがたいと思っております。はい。
俺はハタ・ヨーガというヨガを中心にしてヨガを実践しています。
アーサナという身体をもちいたシンボル、あるいはサイン、あるいは‘箱庭’を使ってそこで得たもの、感じたもの、知ったものを現実世界へ、もっと大きく云うと宇宙まで敷衍して、あるいは逆に世界や宇宙をアーサナを使って自分の内へと落とし込む。・・・そういう類のヨガをやっています。
ハタ・ヨーガはけっして、写真やデモンストレーションを参考にしながら、千差万別の人の身体を万人共通に設定した正しい形や完成形なるものにアジャストなどという強引な手を使ってまで無理やり近づけていこうとする類のヨガのことではないです。
アーサナとはいわば器(うつわ)です。けっして難易度を競ったり、解剖学的に照らし合わせて作り出した‘完成形’なんぞというものを目指したり、その難易度を競ったりするためのものではありません。
それはあくまでその中に‘ 何か’を入れて初めて意味をなす器なのです。
アーサナという器のなかにいくつかの要素を盛り付けします。その盛り付け方にはあるルールが存在しますが、それを知る者は少なく、またそれはこの口上文の中で語るようなことではありません。
盛り付けるものはこの世界にあるおよそ‘全ての’物事です。そしてそれを器に乗るように加工するやり方もまた、それを知る者は少なく、またそれはこの口上文の中で語るようなことではありません。
要するにアーサナは、そこに何を盛り付けるかを知らなければ、それはただの空っぽな器でしかないのです。
おそらくはそれを知らぬ多くの指導者は、そのアーサナ(ポーズ)の空虚さや物足りなさを埋めるために、替わりにそこに解剖学のノウハウだのボディワークだの身体操法のメソッドだのをはめ込み、現代社会を生きるうえでまったくリアリティのない(つまり誰も自己満足を超えて本気で遵守する気のない)絵空事のような哲学や経典の暗誦をトッピングし、果ては人間を昼寝の夢の中に閉じ込め続けるだけのくだらん自己啓発まで仕上げにふりかける。。。引き寄せだかポニョポニョだかヒーリングだかなんか知らんが、そんなのヨガとは何の関係もないでしょう?ヨガだからべジ?いったい何のことだ?
ヨガっていうのは、フィットネスとボディワークと偏食と自己啓発その他お好みトッピングを組み合わせた単なる総体のことなのでしょうか?
例え話なんてのもまた虚しいっていうのを承知の上で、敢えて皮肉としてジャンキーな食べ物に例えてみましょう・・・
おにぎりの具に、そこらで買ってきた添加物だらけのハンバーガーをまるごとブチ込み、その上にシロップとマヨネーズをかける、だがベースはカレー味・・・そんなもんが本当に美味いのでしょうか?
ヨガなんていうのは、現実社会というしょっぱい梅干や辛い明太子みたいなオカズをまるごと美味しく喰らうための『真っ白なご飯』なんじゃないでしょうか?
白いごはんは何でも受け止めてくれるから、納豆だろうがハンバーグだろうがお好み焼き!?だろうが、まとめて喰らうことが出来る。実生活の中に生きるヨガっていうのはそういうことではないでしょうか?
だけど、グロい変態おにぎりなんざ、それだけでもう勘弁なくらいにおなかいっぱいで挙句に胃もたれまで起こす。そのうえそんなのが、現実社会の梅干や明太子や胡椒なんて受け止められるのでしょうか?
だから、グロ変態おにぎりヨガにハマった人々は、本来は生活を支えるベースになるはずのヨガを、逆にむしろ生活の最重要要素にまで押し上げてしまう。
胃もたれするような濃い味の主食にはなれど(俺はとてもそんなもの喰らう気にはなれんが)、他の生活全般を支えるような広範な底力は持ち得ない。もうそれだけで刺激的すぎておなかいっぱいになってしまうから。。。
そんなジャンキーなものをいつまでも食い続けていれば、ヨガの為に仕事を変えただの、仕事を辞めてインドに行くだの、有名イントラを追っかけて一年中海外リトリートで呆け続けるだの・・・まるでヨガやるために生きている・・・っておかしいだろそれ!?ヨガ漬けの毎日!?ヨガどっぷり!?
・・・とまあ、残念ながら、本来のヨガの考え方とは全く逆を往くそんな本末転倒な事になるのは当然のことでしょう。
本来、今自分が居る場所を、自分の見方を変えることによってそこを楽で充実した世界に変える・・・いや世界を変えるんじゃない、世界を変えようとせずに‘世界の見方を変える事’によって、自分の感じる世界を反転させてしまう、そういうのが本来のヨガの考え方なはず。
けっして世界を、自分の今いる環境を、強引に捻じ曲げ変える為のものではないし、またそうする事を正当化する口実に使う為のものではありません、ヨガは。
言葉を変えてもう一度言いましょう。
ヨガは社会から逃げ出したり、現実から眼を背けることを正当化する為の口実ではない!
社会や状況と真正面から対峙して、現実を凝視し続ける為の、そのやり方を教えてくれるテクニックがヨガなはずです。
冷静に考えてみてはどうでしょうか?
あなたたちが尊敬し目標とするヨガの偉い先生達は、サントーシャ(足るを知る)だのバイラーギャ(離欲)だのを語りながら今だに売名と営業範囲の拡大とステイタスの上昇にやっきになり、シャウチャー(清浄)やブラフマチャリア(禁欲)を語るおエライ先生は浮気で嫁に三くだり半を叩きつけられる・・・
アーサナの鍛錬を通してそれらの美徳を身につけた筈のセンセイがたは、ポーズやシリーズがどこまで進んだかにこだわり続け、段階分けされた指導者資格(これもそもそもおかしな話だ)を次々と取得し、与えられたオーソライズだのサーティフィケーションだのインスパイアドだのという虚しい肩書きを自己のアイデンティティにしてそこに依り続ける。。。
そういう肩書きは自分が学んで努力してきた結果として付いてきたものだと云う人もいるかもしれません。しかし、そんな肩書き付きのコースになぞ乗らなくても、ヨガはいくらでも学ぶことが出来るし、だいいち、経験や学びの深さに関係なく、コースに参加し、ある一定のカリキュラムをこなせば認められるって・・・ヨガってそんなものなのでしょうか?
そういった肩書きを提示して、取得してきた免状を羅列しないと、客?が集められないのだろうか?最初にアクロバティックなポーズのパフォーマンスを見せないと、自分の言う事やる事に説得力を持たせる自信がないのだろうか?
あの人たちは、難しいポーズやムーブメントが出来るからすごい先生なのだろうか?
オーソライズとかいう、何の根拠もない免状を持っているから尊敬されるべき先生なのだろうか?
そしてあなたたちは、そういう肩書きを持っているから、無条件にすごい先生と認めちゃうのか?
どっかのサイトにすごいポーズをとってる写真が載っていたから、あなたにとっては尊敬すべき先生なのか?
あなたたちが、今までとこれからの長い時間と金と労力を注ぎ込んで、辿り着きたい場所、なりたい姿が、本当にそれらの人々なのか!?
・・・もしそうだというならそれはそれでよいでしょう。世界中を回りながら各地の参加者に、まるで世界の苦悩や悲しみに染められた半面を一度も見たことがないような人懐っこい笑顔を浮かべながら、世界の楽しさや喜びに染められた半面しか見たことがないような素晴らしい話しをしてくださる、とてもマネできないような超人的なポーズだかビンヤサだかのオマケとして・・・
そんな素晴らしいプロヨガプラクティショナー。。。
遠い国の苦しんでいる人々、泣いている人々に遠い場所からそれはそれは慈悲深い同情の眼を差し向け、遠い場所からいくばくかのお金を寄付し、遠い場所から彼らの為に瞑想し祈る、近くで人が見ている所で。
そんな素晴らしいヨガ界の成功者。。。
いくつになっても向上心だとか達成だとか成功という言葉をけっして忘れない、教え子たちにもそれを一生手放すなと教える、
そんな素晴らしいヨガ実践者の手本。。。
・・・そんな生活にあこがれて、是非そうなりたいっていうんなら、それはあなたの勝手だ。
俺のことも、俺が言ったこともどうか忘れてください。
そしてこれからもポーズの練習と、より早く効率的にそれが出来るようになるための情報収集に自分の情熱と時間を注ぎ続けてください。ヨガ哲学の本や経典を空読みする満足感に浸り続けてください。
将来はそれで、同じ嗜好をもつ人たちに対して、ほんの少しの優越感を感じながら、かなり大きな自尊心を、やっぱりほんの少しだけ満たし続けることが出来るでしょう。。。
もしまだヨガブームが細々と続いていたら、あるいはそれがメシのタネになるかもしれません。
そしてやはり、いつでも自分のいる環境や仕事、役割やコミュニティから逃げ出したくなった時に、あなたのいうヨガは、その根拠と、さももっともらしいその理由を提供してくれる便利な‘保険’であり続けてくれるでしょう。
だけど、インドの人々は、その程度の安心を得ることを目的として、その程度の人間になることをゴールにして、何千年もかけてこの哲学を練り上げたのでしょうか?俺はそうは思いません。てか、あなたがただってそうでしょう?そう思ってるんですか!?インド数千年の練成の到達点が、カリスマと呼ばれる大きなスタジオを持つヨガインストラクターだとでも?サーティフィケーションとかいう肩書きを貰ったアクロバットパフォーマーだとでも?優しい笑顔をたたえながら遠くの国の苦しんでいる人々を瞑想のダシに使ってフィーをいただくナントカヨガ創始者だとでも!?
では、ヨガが目指すもの、それが本当にこの現代で生かされる姿とは、いったい何なのでしょうか?
アサナの練習を通じて云々などというお決まりの常套句は
「それってどんな習い事でも一緒でしょ?」
の一言で一蹴される。それがヨガである必要なんかない。
では、ヨガの専売特許とは?、そもそもヨガって、一体なんなのでしょうか?
自分にとっての、自分の生活における‘ヨガ’という言葉の意味を、一度は徹底的に問い直してみませんか?
テクニックとしてのヨガが立ち現れるのはその後です。
そうしてはじめて、そこで自分に必要なものとそうでないものの取捨選択をすればよいのです。
『ヨガなんてひとそれぞれ』
という言葉は、その段階においてはじめて成り立つもの。
間違っても、テキトーな運動やインド風味に仕上げたボディワークを‘ヨガというブランド’として承認させる為の便利な逃げ口上なのではないはずです。
現代の世の中と乖離して、そこに全然リアリティを見出せない化石のようなヨーガスートラ、カビの生えたヤマ・ニヤマ、日本では生存不可能なサニヤシン思想、・・・
それらを実際の俺たちの現代生活の前に引きずり出して、もういちどその生かし方、それに対する俺たちの態度を問い直す。
ヨガが単なる人生のヒマつぶしとしてのホビーでなく、それで現実世界を渡り歩くための、ズタボロになるまで履きつぶされる靴のように使い切るためにはどうすればいいのか?
それを俺は考えていきたいのです。
某ヨガのキャッチコピー?には
「99%プラクティス1%セオリー」
ってのがありますが、もしこれがトーマス・エジソンの言葉になぞらえたものなら、その本当の意味は、
「99%の実践(練習じゃねえぞ!!!)と1%の理論」
ではなく、
「たとえ99%実践しても、1%の理論(考えぬいた自分なりの決着)がなけりゃ、決して100%にはならない!」
なはずです。
テメエでちゃんと問いなさいと、考えなさいと。。。
もちろん、俺にはエラそうに人様にヨガを説く資格なんてありません。
だから一緒に考えたいのです。
だから場所代もみんなでワリカンなわけ。
それが『尸林のダーキニー会』の趣旨といえばそう。
「全てのインストラクター、ヨガクラス、ワークショップを皆殺しにする」
去年から言っているこれは、いわば決意表明ね。
あなたの信じているヨガも、好きな先生も、その場で殺されるかもしれない。
その覚悟があるんなら、3月6日にお会いしましょう。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑ ここまで ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
こんな暑苦しくめんどくさいことを言っているたっきょさんですが
じつは異性にもてるための「モテヨガ」の開祖でもあります。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=381969977&owner_id=4140745
受講生、随時募集中!
なんだって
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